伝説の2群制覇王「高崎山のベンツ」波乱の生涯と失踪の全記録
高崎 山 の ベンツ――その名は、今なお日本のサル学史において特異な光を放ち続けている。瀬戸内海国立公園の急峻な山肌に抱かれた大分県大分市の高崎山自然動物園。数千頭のニホンザルが熾烈な勢力争いを繰り広げる過酷な階級社会において、圧倒的な武勇と知略で頂点に君臨した伝説のアルファオス(動物行動学における群れの最上位雄)である。
力任せに群れをねじ伏せるだけの粗暴なボスでは決してなかった。メスや子ザルに向ける無骨な眼差し、権力抗争で見せる冷徹な判断力、そして老いてなお衰えぬ求心力。かつてNHKの人気動物ドキュメンタリー『ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜』でも特集され、人間社会顔負けの濃密なドラマで列島を熱狂させた高崎 山 の ベンツの足跡は、旅立ちから時を経た今もなお、語り継がれるべき神話として色褪せない。
異例の出世劇:武闘派「B群」から頂点を極めた若き日の覇気

1977年前後に生まれたとされるベンツ(高崎山のサル)は、幼少期から体躯と胆力において同年代の個体を圧倒していた。当時の高崎山では、高級外車のように力強く頑丈で、何者にもひるまず前進する姿から「ベンツ」と命名されたという。名付け親となったスタッフの直感は、後に現実となる。
血気盛んな若手がひしめく武闘派の「B群」にあって、彼の台頭は電光石火だった。喧嘩の強さはもちろんのこと、特筆すべきは無駄な衝突を避ける天性の戦術眼だ。相手の力量を見極め、勝機を確実に手繰り寄せる。わずか9歳(人間の年齢で言えば30代前半)という異例の若さでB群のトップに登り詰めると、その後長きにわたって群れの安定を保ち続けた。腕力だけでなく、群れの仲間を惹きつける威風堂々とした立ち居振る舞いがそこにはあった。
前代未聞の「2群制覇」と失脚――動物学の常識を覆したカリスマ猿の全記録

しかし、栄光の座は永遠ではなかった。1990年、ベンツは突如としてB群のボスの座から転落する。原因はひと口には語れない。メスを巡る激しい色恋沙汰とも、次代を担う若手との権力闘争によるものとも囁かれたが、彼は群れを去り、放浪の身となった。サルの社会において、一度ボスの座から滑り落ちたオスが再び日の目を見ることはまずない。野生の掟は冷酷だ。
だが、ベンツの物語はここからが本番だった。流浪の末に彼が合流したのは、かつての敵対勢力である「C群」。当然ながら最下位の身分からの再出発である。かつての覇王が、名もなき下位ザルとして地面のエサを拾う日々。誰もが終わったと思った。
奇跡は静かに進行していた。ベンツは決して焦らなかった。上位のオスたちに無用な敵対心を煽ることなく、群れの有力なメスたちや子ザルに寄り添い、確固たる信頼関係を地道に構築していったのだ。喧嘩の仲裁に入れば公平に裁き、外敵が迫れば身を挺して群れを守る。その類まれなる包容力に、メスたちが味方についた。
そして2011年。約20年もの歳月を経て、ベンツはC群のアルファオスへと上り詰める。人間で言えば100歳を超える驚異的な高齢での返り咲きであり、高崎山史上、そして世界の霊長類学の記録上でも類を見ない「異なる2つの巨大群を制覇したボス猿」の誕生であった。従来の動物行動学の定説を根底から覆す快挙に、研究者たちは息を呑んだ。
名参謀ゾロメとの絆:京都大学霊長類研究所も注目した権力闘争と知略

高崎山のニホンザル社会は、単純な腕力勝負のトーナメントではない。そこには高度な政治的駆け引きとアライアンス(同盟関係)が存在する。京都大学霊長類研究所をはじめとする研究機関が長年注目してきたのも、ベンツが見せた高度な社会性だった。
とりわけ語り草となっているのが、歴戦の名参謀として彼を支えた「ゾロメ」をはじめとする側近たちとの関係性だ。ベンツは孤高の独裁者ではなく、自らの右腕となるオスの忠誠を巧みに引き出し、集団指導体制のような盤石なネットワークを築き上げていた。毛づくろいを通じた親密なコミュニケーション、絶妙な距離感の保ち方。力でねじ伏せる支配はいずれ破綻するが、信頼に基づいた連帯は揺るがない。彼の統率力は、人間の組織論にも通じる深遠な示唆に富んでいた。
老兵は死なずただ消え去るのみ:前触れなき失踪の裏に隠された真相
2013年の晩秋、ベンツの肉体には確実に老いの影が忍び寄っていた。歩行は緩慢になり、かつて隆起していた筋肉は削ぎ落とされ、毛並みにも白いものが混じる。それでもC群のサルたちは、老いた王に対して決して無礼な態度は取らなかった。彼が歩けば自然と道が開かれ、若いオスたちも敬意を払って頭を下げた。
そして同年12月。ベンツは突然、エサ場から姿を消した。職員や熱心なファンによる必死の山狩りが行われたものの、その姿が再び確認されることはなかった。年が明けた2014年1月、動物園はベンツの死亡を公式に認定し、異例のお別れの会が執り行われた。
野生動物保護の現場において、老いた個体が最期を迎える際、群れから離れて森の奥深くへと分け入るのは決して珍しいことではない。自らの死期を悟り、誰にも看取られることなく静かに山へ還る。最後までアルファオスとしての威厳を保ち、群れに乱れを生じさせないための、あまりにも潔い幕引きだった。
現代の野生動物保護と霊長類学へ遺したベンツの教訓
ベンツが遺した遺産は、単なる美談にとどまらない。野生動物と人間が絶妙な距離感で共存する高崎山の環境管理システムは、世界中の野生動物保護関係者からモデルケースとして参照されている。
餌付けを行いながらも野生本来の社会構造を損なわせない取り組みの中で、ベンツが見せた「2群制覇」や「老齢個体のリーダーシップ」のデータは、霊長類学における老化と社会行動の相関を解き明かす貴重な学術資源となった。オスは若く強靭でなければ群れを率いられないという旧来の固定観念は、彼という一頭のニホンザルの存在によって完全に塗り替えられたのである。
今なお色褪せぬカリスマ:人間社会を映し出す「名リーダー」の残像
なぜ私たちは、これほどまでにベンツというサルに惹きつけられるのか。それは彼の歩んだ道筋が、挫折、忍耐、再起、そして引き際の美学という、人間の理想とする生き様そのものを体現していたからに他ならない。
強きを挫き、弱きを助け、自らの権力を誇示することなく群れの調和に尽くした。大分の山あいで繰り広げられた一頭のサルの叙事詩は、混迷を極める現代社会を生きる私たちに、真のリーダーシップとは何かを今も静かに問いかけている。 (出典: 高崎 山 の ベンツ(Yahoo!ニュース))